90番目の夜

音楽と脳の研究紹介や、文献管理ソフトの人柱報告などしています。

音楽の脳科学に関する論文集 番外編 vol.5

The nature of music from a biological perspective
Cognition (2006) 100, 1-32.
Peretz, I.

音楽能力は我々の脳内に備わっている生物学的なメカニズムなのか、あるいは
後天的に学習によって得られるものなのか、というテーマについて書かれた
レビューです。人間にとっての音楽の役割や音楽の起源といった系統の話かと
思って読んだのですが、あくまで脳科学だったみたいです。


4年前の論文ですが、あまりこうした観点からの話は聞かないような気がします。
著者のIsabelle Peretz教授は音楽認知研究の二大巨頭の一人で、研究における
彼女の視野の広さを示している面白いレビューといえるのではないでしょうか。


なお、このレビューが載っている巻は、「The nature of music」という特集になっており、
ほかにも音楽関連のレビューが6つ載っているので、興味のある方はそちらも
読んでみてはいかがでしょうか。



1.イントロ

音楽とは何か?という疑問については、文化的な副産物であって学習により
獲得していくものだという主張と、我々には音楽を処理するための生物学的な
メカニズムが生まれつき備わっているのだという主張があります。


多くの民族音楽学者などは前者の考えを持ち、異なる文化に見られる音楽の
違いを調べています。しかし、我々と音楽との付き合いは古く、ドイツでは
数万年前の地層から笛と思われる楽器(らしきもの)が発掘されています。



ドイツのシェルクリンゲンで発掘された楽器らしきもの


また、現在では世界中で色々な種類の音楽が楽しまれていることを考えると、
我々は生まれながらに音楽を好む何らかの理由があるのではないか、とも
考えることができます。



2.人間はどれだけ「音楽的」か

音楽認知を研究する場合、どうしても音楽家の能力に目を向けてしまいがち
ですが、普通の人々も意外と「音楽的」なようです。


研究によると、イギリス人とアメリカ人の約半数は子供のころに楽器を
習った経験があるそうです。また、クラシック音楽の演奏様式の判断など
いくつかのテストでは非音楽家も音楽家と同じくらいの成績を示したという
報告もあります。


また、キチンとした音楽教育を受けないでも有名なミュージシャンとして
活躍したルイ・アームストロングなどの例を見れば、基本的な音楽能力は
誰もが身に付けており、音楽家はトレーニングによってさらに精緻な知識や
テクニックを身に付けていくと言えるのではないでしょうか。。



3."どんな"音楽か

多くの音楽学者はある曲のユニークさに焦点を当てる一方、世代を超えて
聴かれる曲には関心を示さないようです。しかし、こうした長く愛される
曲が持つ特徴というのは、文化や歴史の壁を越えて音楽と関わるための
手がかりを示しているのかもしれません。




3-1.文化を越えた共通性

民族音楽学や心理学の研究からは、異なる文化の音楽でもいくつかの共通性
があることが示されています。


例えば、歌唱つきの音楽であること、曲に特定の拍子があること、一定の音階
を使っていること、個々のピッチは決められていること、5〜7音で1オクターブが
構成されていることなどが挙げられますが、その中でも、固定されたピッチ構造
というのは、録音機器など存在しない大昔から保たれてきた特徴であり、
もっとも基本的な共通点の一つと言えるかもしれません。



4.どれだけユニークなのか

言語と違い、音楽は固定されたピッチ構造を持っていますが、これは音楽に
特化した処理過程があるという可能性を示しています。音楽に限らず、
ある認知能力がユニークなものかどうかの判断は難しいですが、この問題は
Domain-specificity(独自性?), Brain localization(局在性), Innateness
(先天性)の3つに分けて考えることができます。


研究者によっては、音楽に対するモチベーションだけが先天的なもので
それ以外はより一般的な学習メカニズムによって獲得されるものだと
(つまりdomain-specificityは存在しないと)考える人たちもいますが、
Lerdahl & JackendoffやPeretzたちは少なくともピッチ処理について
domain-specificな処理メカニズムが存在すると考えています。


例えば音楽で使われる固定されたピッチ構造は、言語には見られず(独自性)、
脳障害によってピッチ処理に特異的な障害が生じる(局在性)という報告
が見られます。さらに、双子を対象とした研究からは、ピッチ弁別の成績に
おける相関は一卵性の方が二卵性よりも高かったそうで(先天性)、これらを
踏まえると、ピッチ処理については音楽独自の処理過程があると言えるの
ではないでしょうか。




4-1.Domain-specificity

単純にドメインと言っても、Auditory scence analysis(聴覚情景分析)のように
広く一般的なものからピッチ処理のような小さなものまで考えられますが、
それぞれのレベルでそれなりに特徴的な処理が行われており、その意味では
これらはすべてdomain-specificだと言うことができます。


しかし、auditory scence analysisは音楽だけでなく全ての聴覚入力で
利用されており、domain-specificとmusic-specificがイコールの関係で
あるとは限りません。


また、domain-specificityは学習によって獲得されることもあります。
例えば調性に関する学習では、入力(音列)と出力(調性の知識)は
music-specifcなものですが、学習それ自体はもっと一般的なメカニズム
(刺激における統計的な規則性の抽出)によって行われると主張する
人たちもいます。


では、一体どれだけの処理が音楽に特化した処理過程に依存している
のでしょうか。これまで述べたようにピッチ処理についてはその可能性が
ありますが、これ以外には何があるのでしょうか。


(Domain-specificityについては正直なところ、何を言いたいのか
理解できませんでした・・・
たぶんこうなのかと思うことを書きましたが自信がないので、
よければ文献の方をお読みください(汗))


4-1-1.音楽のモジュール構造

ピッチ処理については音楽独自の処理過程があるかもしれませんが、逆に
ピッチ処理くらいしかないという可能性も否定はできません。あるいは
スティーブン・ピンカー述べたように、音楽に特化した過程など存在せず、
言語などの認知機能を借用しているだけかもしれません。



スティーブン・ピンカーはこんな顔。


しかし、今のところ彼の考えを支持する証拠はほとんど見つかっていません。
そもそも音楽が借用する側なのか借用される側なのかも分かりませんし、
どのメカニズムをどの認知機能から借用しているのかを調べることはかなり
難しいでしょう。


一方で、自閉症児や音痴(tone-deaf)、脳障害の患者を対象とした研究からは、
音楽に特化した処理過程の存在が示唆されます。しかし、ほとんどはピッチに
ついての研究であり、ほかの特徴がどれだけmusic-specificかは分かっていません。




4-2.先天性(Innateness)

モーツァルトのような天才になるにはどうしたらいいか知っていますか?
モーツァルトに生まれればいいんですよ。(←ドヤ顔で)


というのはさておき、音楽能力に遺伝的な影響があるという事は少なくとも
研究者以外では当たり前に思われているようですが実際はどうなのでしょうか。


言語に関しては、FOXP2という遺伝子の異常によって言語障害が引き起こされる
ことが報告されています。また、音痴(tone-deaf)の人の多くは、親戚にも同じような
音痴の人がいることから、音楽に関しても遺伝的な影響があるのかもしれません。


とはいうものの、こうした原因遺伝子を特定するのは難しいでしょう。
どんな行動でも遺伝的な影響を避けられないですし、むしろそれらがどれほど、
またはどのように影響を与えるかに注目した方が有益かもしれません。


4-2-1.音楽への素質

神経学的に問題がなければ、多くの人間は1歳にならないような頃から
音階やリズムの規則性について大人と引けを取らないほどの感受性を
持っています


しかし、赤ん坊の脳は驚くほどの可塑性を示すので、こうした能力が学習に
よってもたらされたという可能性は否定できません。TrehubとHanonは、人間は
先天的に音楽を聴こうとするモチベーションを持っており、それが赤ん坊の
注意を音楽に向けさせ、赤ん坊は音楽にさらされることで色々な音楽の知識を
学習するのだと主張しています。


とは言え、学習だけでは説明が難しい例もやはり存在します。
例えば、完全5度(ド-ソ)の音程は増2度(ド-レ♯)よりも距離が離れており
学習は難しいはずですが、世界中の音楽においてよく使われるのは完全5度
の方です。


また、"何を"学習すればいいのかをどうやって知るのかという問題もあり、
必ずしもすべての音楽的な知識が学習によって獲得されるものではないだろう
と考えられます。


4-2-2.人間だけが持つ特性

音楽能力は人間だけに見られる特性なのでしょうか。
人間と同じように音楽を扱える動物は少ないかもしれませんが、そのベースに
なる能力を持った動物はいるかもしれません。


言語についてはヒトとサルの比較研究がいくつか行われており、ある程度の
類似性が見られたようです。音楽に関するこうした研究はまだ少ないですが、
ほかの種との比較研究は音楽認知に対する理解をより深める事になるでしょう。





4-3.脳における局在性(localization)

音楽に特化した処理過程が脳内にあるとしても、それが必ずしも脳における
局在性を示すとは限りません。むしろ、言語処理や別の認知的なプロセス
を流用している可能性もあります。


脳損傷患者の研究は、少なくともピッチについて音楽に特化した処理過程の
存在を示唆していますが、ピッチ処理にも3つの異なるレベル(pitch space,
tonal reduction, tension/relaxation)が存在するという主張もあり、それぞれの
タイプで異なる局在性が存在していても不思議ではないかもしれません。


4-3-1.言語処理の借用

音楽と言語の処理過程の関連性については、最近の研究から言語でも音楽でも
同じブローカ野が文法あるいは構造の処理に関与しているが示されています。
しかしブローカ野の役割はそれだけではないや、研究手法上の問題など、
そうそう簡単に結論が出るものではなさそうです。


4-3-2.脳の可塑性
ある認知機能が生物学的に備わっていると言うためには、集団の構成員全て
に共通して同じものを見つける必要があります。しかし音楽ついて言えば、
人によって経験量が大きく違うのでそれを見つけるのは難しいでしょう。


外国語学習の過程を考えれば理解しやすいですが、勉強にかける時間や
学習量は人によって異なり、それは脳活動の違いとなって現れます
同様に、音楽にかける時間は人により違うので、例えば音楽家と非音楽家
では脳機能だけでなく構造にも違いが見られることが知られています


音楽家を対象とした研究を行うことによって、我々の脳における音楽の
処理過程が学習によってどのように変わるかを知ることができます。
これまでに散々述べてきたように、ピッチ処理には生得的なものが
大きいかもしれませんが、特徴によっては学習の影響が大きいという
可能性もあるかもしれません。



5.音楽における感情の力

音楽が単なるエンターテイメントではなく、幸福感や哀しみ、高揚感など
感情的なインパクトを与える物だということは誰もが認めると思いますが、
こうした効果が見られるのは大人だけではありません。


6歳になるまでには、大人と同じように音楽から幸福感、哀しみや恐れなど
の感情を認識できるようになることが報告されています。


しかし、ここでも学習の影響を見ることができます。人によって受ける影響
は違いますが、音楽における感情は脳内の辺縁系(Limbic system)、
例えばNucleus Accumbens, Insulaなどを刺激することが知られています
これらの部位は食べ物やドラッグなどによっても活動が見られる部位で、
その意味では音楽はドラッグと同じくらい刺激的だと言えるかもしれません。



6.なぜ人間は音楽的なのか

ここまで述べてきたように、音楽は数万年の遠い昔から存在し、赤ん坊の頃
から反応を示すような刺激であり、感情的に強い影響を与えるものです。
ではなぜ音楽はそうなのでしょう。


音楽は我々にとって何の役割を持つのでしょうか。これには二つの説があり、
一つはDarwinやMillerが主張したような異性へのアピール手段というものです。
Wordファイル) 優れた演奏技術や芸術的な創造性は、ほかの人よりも
自分の方が優秀である事を簡単にアピールできます。





もう一つは集団における結束を高めるというで、みんなで歌を歌ったり
ダンスを踊ったりという共同作業によって、まわりの人とのコミュニケーション
が生まれ、集団内の一体感が増すというものです。





音楽が持つ固定ピッチ構造や規則的なリズムは、後者の説を支持する証拠
と言えるかもしれません。これらの特徴は、複数の人たちが歌を重ねたり
一緒に踊ったりするためには都合がいいと思われます。


こうした考えを検証するのは難しそうですが、研究に新たな視点を与えて
くれるのではないでしょうか。



結論

音楽と音楽認知のプロセスについては未解決な部分がたくさんありますが、
このレビューで示した多くの証拠は、少なくとも部分的には音楽が生得的な
システムに由来した特殊なプロセスであるということを示唆しています。


我々にとって音楽とは何かを明らかにすることで、教育や社会に対して
音楽が持つメリットを示し、現状よりも色々な事について音楽を役立てる
事ができるようになるかもしれません。結果の解釈は注意深くすべきですが、
音楽に関連した行為の生物学的な基盤を明らかにしていくことは、研究者
だけでなく、その他の人々にとっても歓迎されることではないでしょうか。





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人間にとって音楽が持つ役割は何かという話を期待して読んだのですが、
大部分は音楽に特化した処理過程があるのではないかという話で
占められていたようです。


もっともそれが正しいとすれば、レビューで述べていたように音楽は
文化的な学習の賜物ではなく生物学的に意味のある物という事になります。
言い換えれば、音楽でなければ出来ない"何か"があるという事で、
人間にとって音楽の持つ役割という話を考えるときの重要な土台に
なってくる話ではないでしょうか。


しかし長くて小難しいレビューだったなぁ…(汗)